被災地訪問② 気仙沼・南三陸町
さて、一本松に別れを告げR45を南下。 大型漁船が今も陸に打ち上げられたままの気仙沼市鹿折地区を目指します。
道すがらR45には「過去の津波ここから・ここまで」のような標識が立ち、要するに入り組んだリアス式海岸の入り江部分は全て津波に総なめされたんだなという状況が分かります。
陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第18共徳丸」です。
隣を走るバスと比較してその大きさが分かると思います。
船の前には祭壇が設けられ、訪れる人は皆手を合わせていきます。
この鹿折地区は津波のあと漁船から流れ出た燃料で大火災が起きた地区で、廻りを見渡すとまるまるの空き地。 目を凝らすと雑草の中に建物の基礎だけが残っていました。
この第18共徳丸はまさに交差点のど真ん中に鎮座していて、今後の復興の際には邪魔になる場所にありました。
モニュメント化に対し賛否両論のようですが、単純に出かけてみて、この船がなかったらここがどこか分からなかったと思います。
同じような意味で被災者の方の中には「この船がなくなったら誰も来ない。だから残すべきだ。」という意見があるそうですが、ここでも思ったのは「なぜに県外からの訪問者がお金を落としていく仕組みを作らないかなぁ・・・」でした。
まだまだ自分たちの生活に精一杯でそんなことを考える余裕がない、ということなのでしょうか。
気仙沼港脇に建つ気仙沼漁協です。
ここにも津波の到達点が表示されていました。
陸前高田市よりも高さ的には低いようです。 地形の差なのでしょうか。
この屋上駐車場にも上ってみました。 震災当日この屋上に逃げて一命を取り留めた人が大勢いました。
当日のそこからの景色は、港の堤防を津波が越え、港の駐車場に停めてあった車がどんどん流されていく映像で多くの人が目にしたと思います。
漁協の裏手の景色です。
ポツポツ残っている建物も、全て津波で中身は空っぽ。
戻れなくなった海水がそのまま残っています。
建物が流されなくても、状況としては基礎しかなくなってしまった鹿折地区と変わらないのでしょうね。
更にR45を南下。 南三陸町に向かいます。
津波到来の中、最後まで防災放送を続けた遠藤未希さんで有名な防災庁舎です。
今は鉄骨しか残っていませんが、屋上部分には建物の機能を偲ばせるアンテナがついています。
震災当日このアンテナにしがみついている人を見ました。
こじんまりとしたビルではありますが、誰しもこの屋上にいれば津波はやり過ごせると思っていたのではないでしょうか。
実際当時の放送の声を聞いても「6mの津波が押し寄せます」と言っていて、まさかの15mを予測した人間は誰もいませんでした。
この日は仙台の繁華街国分町に泊まりました。
お盆中だったせいもあるのでしょうが、まぁ飲み屋さんの盛況だったこと。
仙台も地震で相当の被害があったようですが、今見る限り仙台は元気です。
次回は、相馬市・南相馬 そして原発警戒区域についてご紹介します。