被災地訪問① 陸前高田
夏季休暇を利用して、被災地巡りをしてきました。
東北道を一路一関ICまで。 そこから「奇跡の一本松」の陸前高田市を目指します。
もうそろそろなのかなぁと思ったところで、まさかの渋滞。
いやはや被災地巡りの観光客(?)がこんなにいるんだぁと思いきや、道路整備・環境が整わないための自然渋滞でした。
どこからが直接の津波被害を受けた地域なんだろうと考えながら突き進むこと10分。 歴然でした。
いきなりの空間。 周りを見渡せばところどころにガレキの山。
市内を流れていた気仙川の「姉歯橋」はすっかり流され、橋脚だけが残っています。
その姉歯橋のたもとには「チリ地震の際の大津波を教訓に、それに耐えうる橋・・・云々」と書かれていましたが、・・・チリ地震での津波が6mだったそうなので、想定外の大津波だったことが良く分かります。
対岸を見てもらうと分かりますが、いきなり橋がもぎ取られています。
川面だけを見ていると、穏やかな真夏の昼間、浅瀬の水もさぞかし温いんだろうなぁ といった感じ。
大船渡線の踏切です。
線路は全て流され、かろうじてコンクリートで囲まれた踏切の残骸だけがポツンと。
陸前高田の駅も、うーーーん あのあたり?
鉄道が壊滅状態の中、JRのバスが走っていました。
ところどころに鉄骨だけが残されたビルの残骸が。
天気が良かっただけにとてもシュールな情景です。
遠目から見たビルの塔屋に青い看板が・・・。
持ち主が自社名でも掲げているのかなぁ・・・と思いきや、津波の到達点でした。
15mの津波とは聞いていましたが、実際にその高さを実感させられるモニュメントになっていました。
雇用促進住宅です。(下左)
右手のビルでもそうでしたが、ここでも津波の高さが良く分かりました。
4階までのバルコニーは手摺りもなく、ガラス窓も全てなくなっていますが、5階のバルコニーには手すりも窓ガラスも残っています。
この高さまで水に浸かる、ましてや急速な流れのある水圧に曝されることを考えたら、鳥肌が立ちました。
火事と違ってその被害の境界線がハッキリしているところも、何とも不気味です。
もともとはグランドだったところです。(下右)
今はガレキの置き場になっていて、ガレキの種類ごとに山が出来ていました。
工事関係者以外立ち入り禁止の先には、海岸沿いにこんな風景が広がっています。
国道45号線沿いの道の駅「高田松原」です。
海を背に国道に面したこの建物も無残な姿に。
この裏手にはかつて壮大な松林が連なり、それを抜けた先には白い砂浜が広がっていました。
そこは砂遊びや海水浴を楽しむ人たちで賑わっていたことでしょう。
かつて観光地であったことを偲ばせる一片です。
道の駅の向かいには、被災者の冥福を祈り花や線香を手向ける人のために小さな小屋が建っています。
その中にはかつてのこの町の写真が飾ってあり、今との比較をすると災害の大きさを実感できます。
奇跡の一本松です。
といっても、中に鉄の芯棒を通し腐食を防ぐための防腐加工が施された松です。
奇跡的に残った当初、生育状態にも問題がなかったようですが、震災による地盤沈下で根本の地盤が塩分過多になり、根腐れが起こってしまったそうです。 復興予算の内の1億円以上をかけ、モニュメントとして生まれ変わった「一本松」。
この予算の使い方は賛否両論だとは思いますが、誰もが震災を忘れないために、諦めない気持ちを忘れないために、そして一緒に被災した松がどんな形であれその姿を保っていることが励みになるのであれば、十分必要性があったのではないかと思います。
一本松の近所には臨時駐車場が出来、盆休みのせいか結構な数の観光客(?)が訪れていました。
老婆心ながら、この際そこそこの駐車料金を取って、他にもここを訪れた人達にお金を落としていってもらうことを考えても、罰は当たらないんじゃないかなぁ・・・ と思うのは、私だけでしょうか。
説明をしてくださっている方の話に耳をそばだてていても、「来て下さっただけでありがとう」なのです。
まぁ 確かに そうなのかもしれんけどぉ・・・
津波に襲われなかった崖の裏側、高台の家と被災した港の対比です。
あれだけ何もなくなってしまった町の延長線上で、まさに紙一重だったのでしょうね。
港の脇の被災した水産工場と思われる建物です。
でも、その向かい側では・・・・
復興を目指し頑張っている会社が がんばれ~
この堤防の高さを超えてきたってことなんですよねぇ。
今堤防越しには穏やかな海面が見えていますが、水門を閉めてもその上から溢れ出る濁った水の塊を想像すると背筋が凍ります。
次回は 気仙沼・南三陸町をご紹介します。